No.23
森川雅代(33)
1999.4.3 掲載
『やわらかい心は自らを豊かにする』

 私がウィズエブリワンに初めて参加したのは、昨年の7月でした。学生時代からスポーツに親しみ、元気がとりえの私でしたが、当時は体調をくずして激しい運動は止められ、おまけに指まで骨折していました。そんな時シティライフで見つけたのが、ウィズエブリワンの活動でした。
 以前から職場以外で仲間づくりをしたい、と考えていたので「障害者が一緒なら、無理な活動はしないだろう。保母という自分の仕事柄、世話をするのは苦にならないし」と、安易な気持ちで参加しました。しかし実際に車椅子の人に接したら、何をして欲しいのか何をしたら良いのか、全く分かりませんでした。不安がる私に「イヤだったら、いくらでもやめられる。もっと知ってからにすれば」と、同じく参加した人に言われ、「よく分からないからという理由でやめるのはよそう」と考え直したのでした。
 私が育った家は、祖母のやり方全てに絶対でした。女性はこの日に髪を洗ってはいけない。洋服を新しく下ろす日はこの日。正月6日間は肉、魚、青野菜を食べてはいけない。こんな風に日常茶飯事に絶対がたくさんありました。歓迎していたわけではありませんが、その環境の中で育った私には当たり前になっていました。就職して先輩達から「人に迷惑をかけるようなことは別として、生活の中に絶対ってないんだよ」と言われ、徐々に私の人生観は変わっていきました。「みんなで生きていく上でルールは必要だけど、自分のルールを押し付けるのはやめよう」と思ったのです。割り切れるようになるには数年かかりましたが、いろいろな出会いが私を柔軟に変えてくれたように思います。
 2回目のエブリワンの活動では、自由行動でデパートに行きました。行動を共にするうちに、障害者の食事やトイレも理解でき、私ができることも分かってきました。思えば、この子はどんな性格?どこまで1人でできる?と考える保母の仕事と同じだったのです。仕事と違うのは、イヤだったらやらなくても良いということでした。そして、友人という点では障害者も健常者もかわりはなかったのです。
 これまで私の周りに障害者はいませんでした。自分と違う動きに対して、最初は驚くこともあります。何をしてもゆっくりのスローテンポに苦痛さえ感じました。しかし、障害者を理解していく中で、ゆっくりの大切さも分かってきたのです。これまで子供達に「はやく、早く。ガンバッテ」を繰り返していた私も「ゆっくりでいいんだよ」と言えるようになりました。
 人生進むばかりでなく、立ち止まったり、後ろを振り返ったり、時には後戻りをしたり。きっとそうしているうちに、良い方法が見つかるような気がします。「自分も少しは役に立てるかも」と、思って入会したウィズエブリワンの活動でしたが、私にとって学ぶことや教えられることのほうが多かったのです。

 

No.22
早崎 渉(37)
1999.3.6 掲載
『すべての人に暮らしやすい環境とは』

 『障害を持つ人にとって暮らしやすい環境は、誰にとっても暮らしやすい環境である』というのが私の信念です。また、暮らしやすい環境づくりはエブリワンの活動目的のひとつです。
 だれでも、いずれは歳をとります。若い頃は何ともなかった駅の階段の昇り降りがつらくなる日がきます。また、思わぬケガをした時、普段はなんでもないたった1段の歩道の段差が、行く手を阻むことに気がつきます。わが家でも、妻は妊娠中、歩道の段差やスーパーの階段と格闘していました。娘が生まれたあとも、ベビーカーを押して妻の闘いは続きました。
 人生は様々な人とのコミュニケーションの上に成り立っています。出会いを求める気持ちがあっても、外に出かけにくい環境があると、せっかくのチャンスを失うことになります。
 エブリワンの活動を通じて思うのは、障害を持つがために出会いの場が少なくなってしまう人が、まだまだたくさんいるということです。何かのきっかけでエブリワンに参加してきた仲間は、最初は消極的でも、障害のあるなしを問わず仲間として活動するうちに友達もできて、生き生きしてきます。
 私は、学生時代、仙台で『きぼっこキャンプ』という障害児の療育キャンプにボランティアとして参加していました。その時、言葉ではコミュニケーションがとれない重度の障害児でも、1週間過ごせばすべて理解できなくとも、一緒に笑い、思い通りにいかなければ不機嫌になり、怒ったり喧嘩したりという体験をしました。そして障害の有無ではなく、人間として共に生きている素晴らしさを実感したのです。この経験が今日の私の信念を築いていると思っています。
 12年前、社会人となって市原に移り住みました。当初は仕事以外の知り合いはいませんでしたが、市原市の『交流ハイキング』や交流列車『ひわまり号』などの行事に参加することで、年齢、性別を問わないたくさんの人と出会うことができました。その中でエブリワンの倉田会長と意気投合し、1991年に『市原・ウィズ・エブリワン』を結成し、現在に至っています。
 家族は、妻と娘(4才)の3人です。趣味は家族や気のおけない仲間と行くオートキャンプで、アウトドアで自然を楽しみながら、のんびり過ごすのが大好きです。エブリワンの活動でも何度か楽しいキャンプを経験しました。娘をエブリワンの活動にちょくちょく連れて行きますが、『車椅子のお兄ちゃん』も『とうちゃん(私)』も同じ大人と感じてくれているようです。彼女にとって障害があることは特別なことでなく、その人の個性と受けとめているからだと思います。彼女の振るまいを見て、私はライフワークを見つけました。それは、駅やスーパーやファミリーレストランで、障害(例えば車椅子)という個性が、特別なものでは無くなる環境作りです。車椅子に乗る人も乗らない人もお互いの存在が、あたりまえになることが、だれにでも暮らしやすい環境作りの第1歩になると思うからです。

 

No.21
小倉 浩(20)
1999.2.6 掲載

 1月15日、僕は地域の公民館で行われた成人式に出席しました。良く『成人式は中学校の同窓会のよう』といわれますが、地元の学校に通学していない僕にとっては知らない顔ばかりでした。
 僕は重度の筋ジストロフィー症のため、全面介助が必要です。小学校は養護学校に通いましたが『地域の普通学校へ通学したい』という希望は、小学校高学年の頃からずっと持っていました。夢が捨てきれず、中学進学の時には地域の中学校へ1日体験させてもらったことがあります。クラスの皆はとても親切にしてくれましたが、1クラス40人という人数に僕が圧倒されてしまいました。しかも教室は最上階、車椅子での移動も大変です。あまりにも短い時間だったこともあり、僕自身も不安だったが『施設も不十分、事故があったときのことを考えると・・・』というのが学校側の返事でした。
 養護学校では、障害の度合いによって細かくクラス分けされているので、1クラス多くて数人。時には一人ぼっちのときもありました。通学に体力を消耗するなど、いろいろ重なって僕は学校を休みがちになっていました。そんな時見つけた趣味が将棋でした。中3のときには良い先生との出会いもあり、パソコンを覚えることもできました。そして養護学校以外での活動や友達を見つけることもできたのです。ウィズエブリワンの存在を知ったのもその頃でした。それまで内にこもっていた気持ちが一気に外に開いていった感じでした。
 高校時代はクラスの人数も増え、学校がおもしろくなって生徒会活動やクラブ活動にも一生懸命でした。卒業後の進路もいろいろ悩みましたが、現在は在宅で放送大学とエブリワンの活動を中心に、趣味も大いに楽しんでいます。
 『在宅』という道を選べたのも協力してくれる家族と恵まれた環境があるからです。しかし、いつまでも親に頼ってはいられません。僕なりに自立ということを考えた時、『地域と共に暮らす』のがベストだと思っています。地域の障害者に対するサポート体制が整っていれば自立も可能です。僕の場合、親が介助してくれるので好きな所へ出かけられますが、そこで他の障害者の姿を見かけることはありません。
 小学校5年のとき、押してもらう手動の車椅子から自分で思う所へ行ける電動車椅子になって、僕の人生観は一変しました。1人で自分の思う所へいけるのですから。近所に買い物に出かけました。何よりもうれしかったのは、家のまわりで友達と遊べたことでした。あの時遊んだ友達と一緒の学校に行けていたら、もっと違う世界があったかもしれません。僕たちに今一番必要なのは身近な友達です。自分を理解し、サポートもしてくれる友人です。
 これからは障害者であっても、みんなと同じ地域の学校に通えるようになれば良いと思います。ずっと一緒に授業を受けるのが無理なら、1週間に1度だけでも。授業が無理なら給食の時だけでも。僕たち障害者を健常者に分かってもらうこと。健常者と障害者が共に同じ社会で暮らしていけるようにしたいのです。それは僕自身の自立にもつながります。僕も成人し、選挙権を得ました。これからは政治にも僕の視点で関心を持って投票していきたいと思います。

 

No.20
倉田知典(29)
1999.1.1 掲載
『ともだち募集中』

 僕は8ヶ月の未熟児で生まれたため、全面介助を必要とする重度の肢体不自由となりました。6才ごろまでは座ることも出来ず寝たきりの状態でした。僕には1つ上の兄がいますが、当時はテレビゲームの時代ではなく、小さい頃からよく外で遊んでいました。兄の友達が家に遊びに来て賑やかな時はいいのですが、いっせいに外に出て行った時などは「どうして僕は外に出られないの」と、親を困らせたものでした。幼い頃からいつも兄がうらやましくてなりませんでしたが、僕が本当に外に出たいと思ったのは高校を卒業してからでした。
 小学校から高校まで通った千葉県立袖ケ浦養護学校の中でも僕は重度の方でした。卒業後は中学校からやっていたパソコンを活かして何かしたいと思っていたのですが、働く機会も場所も近所にはなく、何をやったら良いのか分からない状況でした。そんな時、以前行った千葉市の福祉作業所で見たタイプアートのことを思い出し、絵を描いてみようとコンピューター・グラフィックスを始めたのです。たまたま最初に出した絵が賞を頂いた事もあって、絵は少しずつ続けています。
 今は多少の歩行も可能になり、仲間と色々な所に外出するようになりましたが、障害者同士・健常者同士のつながりはあっても、障害者と健常者のつながりは少ないように思います。福祉といっても現場はわからないまま、健常者同士だけで話し合うものになってはいないでしょうか。”障害者とはこうなんだ”と、決めてはいないでしょうか。言い方は変だけど、僕は実験台になってもいいと思っています。例えば高校・大学の福祉教育を学ぶ場では、机上だけでなく僕らを呼んで欲しいのです。もっとこちら側の意見を学生に聞いて頂き、本当の現場を知ってもらう事が大切だと思うのです。僕らもそんな形で役に立てたら、大変うれしいのです。何も福祉作業所だけが僕たちに与えられた仕事ではないと思うのです。(就職模索中)
 僕は年に何回か行政等が主催するイベントに参加しますが、ボランティアの方々との交流もその日だけで終わってしまう場合がほとんどです。ボランティアの話を聞くと『あくまでも障害者の手助け』という意識でした。でも僕らが本当に欲しいのは友達です。平成3年、僕が発起人となって出来たグループ”市原ウィズエブリワン”は障害者、健常者の区別なく友達作りを目的とした交流会です。今は輪も広がり、メンバーは110人。うち障害者は3割です。先日は電車を利用して1泊旅行にも出かけてきました。障害者の中にはそういった事を経験出来ない人がたくさんいます。また、施設の中にいると外の世界もわかりません。送迎の問題等、手助けがないとそのチャンスさえもないのです。