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社会福祉法人 光明会 広報紙 連載記事

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2014年12月〜2017年3月まで(終了)
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E-mail tomonori.taiwa@gmail.com

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2014年9月号 私が願うネットの良さを感じてみたい

倉田知典 http://www.skz.or.jp/taiwa

 私が、インターネット(以下 ネット)と出会ったのは、ブログという言葉が出現する前の、自作のホームページを作ることが流行り始めた時だった。もちろん、まだモバイル系ではネットがつながらず、パソコンを持っていないと出来なかった。『出会い系』といった言葉も世の中にはなく、マナーやモラルのある人達がほとんどで、荒れもない良い時だった。私は当時、ネットを通じて顔の知らない、会うこともないであろう遠い人と、文通感覚で何人かと、やりとりしていた。本音は実際に会いたかったが、やはり、お互い遠過ぎて会うまでには至らなかった。私のような自力外出の出来ない者は、ネットがこれから普及することによって、新しい良い出会いと触れ合いが、今後、待っていると期待していた。
 ところが時は流れ、ネットが発展して来ると、モバイル化が普及し始め、誰もがネットを活用できるようになり、出会い系から始まって、思ってもみなかった色んなネット事件が出現し、真面目な良い出会いができにくい社会になった。私は真面目にネットを使い、新たな良い出会いと触れ合いを作ろうと必死であったが、なぜか出会い系と勘違いされたり、変な人と勘違いされたり、傷つくことも多かった。新しい良き出会いなんて、現実的ではなくなった。
 また身近な人同士で、どんなに文章がうまくても、顔と顔を合わせて話さない限り、溝が埋まらない話しを、あえてネットメールなどといった手段で済ませようとする人が多くなってきた。私の経験や周りの人の意見を聞いても、ネットという手段で解決しようとする限り、誤解は高まり、溝は深まるばかりと考える。
 近頃、世の10代や20代前半の人達は、顔と顔を合わせて本音で語ろうとせず、ネットという手段で本音を伝え合おうとする人が増えている。これでは表情や感情などが伝わらず、誤解が高まり、本来の情を持った人間らしさが崩れ、機械的で割り切った人間が増え、寂しい世の中になってしまわないかと不安を覚える。若者世代だけではなく、40代や50代の中年世代も、このようなネットで大切な話しを済まそうとしている人が見受けられる。
 ネットで様々な立場の人と、出会うチャンスが大きく広がったはずなのに、表情や感情が見えないネットのみでの交流がこのまま進めば、人との触れ合い方がわからない人が増え、孤独で寂しい生き方をする運命になるのは、人として生まれてきて、もったいないと考える。
 ネットに関連する様々な事件が多発し、ネット内で色々な規制がかけられているが、規制をかける以前に、ネットと上手に触れ合うマナーや教育を作り上げていくことの方が先決であると思う。
 ネットでコミュニティが豊かになった反面、ネットメールだけのやり取りの中で、人の心は誤解だらけで、ギスギスした心の不自由な人が増えている。 ネットと本当の人間関係のあり方(良さ)を分けるべきである。
 ネットは人と人とが出会う手段である。本当に人と人とが信頼関係を深めるには、顔と顔を合わせ語り合う場が大切であり、それこそが本物の人としてのコミュニティのあり方であろう。
 ネットを活用した理由は、新たに良い出会いをし、そして日常において、顔と顔を合わせ語り合い、仲良くなる関係へとつなげて行くきっかけとして、始めた私。もう一度初心に戻り、始めた時の頃を思い出し、まずは新たに良い出会いが出来ることに努めていきたい。そして実際に会える良い関係となり、ネットの良さを感じてみたい。

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2014年6月号 目を向け合おう! 身近な住人さんに

倉田知典 http://www.skz.or.jp/taiwa

 私は1人暮らしを続けている(前号の通り)。私の近所には、福祉支援者(ヘルパー)以外の友人や仲間が何人か住んでいる。震災などが起こった時は、私の家に来て助けて頂けるように、日ごろから話しをしている。
 2014年2月、関東南部で記録的に降った雪の時、ホームヘルプサービスには、雪かきなどの支援がないため正直困ったが、近所の友人が訪れ、雪かきをしてくれたのだ。それにはとても助かり、ありがたかった。
 また数日後、雪が降り積もった際は、同じアパートの住人さんが、気付いてくださり、早くから私の玄関前まで、雪かきをしてくださったのだ。たまに出会う住人さんで、今時の若いカップル。だが、いつも、あいさつをしてくれて、礼儀正しい人だと思った。
 とある日、その住人さんに私からあいさつをし、「もし今後も、震災や天災、緊急事態などが起きた時は、助けに来てください。よろしくお願いします」と話しをしてみた。すると、住人さんは快く「わかりました」と話してくださった。お互いに良い関係になれてよかったと思うし、感謝している。
 また私の存在を、さらに気にかけて頂いたのだろう……。私は気にしてはいなかったが、アパートは足音などが響きやすく、住人さんの足音が毎晩聞こえていたのだが、その後、あまり聞こえなくなり、静かな夜を過ごしている。私のことを気にかけて頂けていることは、本当に嬉しい気持ちである。
 健常者同士でも、同じアパート内に誰が住んでいるのか、知らない世の中である。ご近所のお付き合いの大切さを身に染みて感じたのだ。
 友人や仲間を初め、日頃の福祉支援者(ヘルパー)をもっと大切にして行きたい。また、いざという時に、支えて頂くであろう同じアパートの住人さんと、日頃からコミュニケーションを取って行くことで、何かあった時、支援する側、される側を超えた互いの支え合いが自然と出来ると考えている。
 障がい者は、福祉支援者だけに、支援してもらおうとする人たちも少なくない。しかし、同じ街に生きる社会の一員として、目の前の住人さんと仲良くなることが、もっと自然な支え合いにつながっていくきっかけになると思う。
 これからは、身近な住人さんと、さらに仲良くして、そのことをたくさんの人に伝え、輪を広げられるように努めていきたいと考えている。

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2013年12月号 待ちに待った街に戻って・・・諸活動で街に恩返し。

倉田知典 http://www.skz.or.jp/taiwa

 静かにすると、朝は子供達の登校する話し声。また猫や鳥の鳴き声も。昼は、廃品回収車のスピーカーからの声。夕方は、それぞれ帰路に向かう人々の足の音。約2年ぶりに、様々な立場の人が暮らす、街の音に囲まれる環境へと戻り、新しく一人暮らしを出発させた。
 両親の支援を受けながら、実家暮らしを続けてきた私は、今から約5年前に、両親が老いたことにより、両親の支援を受けることが徐々に難しくなってきた。そのことで、私の生活と社会活動に支障が出て、生まれ育って生きてきた愛着のある実家(自身の部屋)を離れ、全く別の場所で暮らすことを計画し始めた。
 施設等の存在は十分尊重するが、実際に住むことを考えた時、私は集団生活が苦手で、障害者支援施設等の暮らしは論外だと思った。一人暮らしをしたいと、両親に話すと反対され、いつも大ゲンカの日々だった。行き場のない私は、ホームヘルプ等の支援が充実し、一人暮らしが安定して続けられる、他の地域に出ることも考えた。
 その頃、実家に週2回、私の支援をしていただいていたヘルパー事業所から「ご両親も、いきなり一人暮らしは心配だから、全室個室の障害者支援施設を開所するので、短期間入所(ショートステイのロング)で、数年住まれたらどうですか?」と言う話しを受けた。そこで、まずは両親と離れ住むことで、私と両親も何かしら思いが変わるのでは・・・という前向きな気持ちになり、施設での生活をスタートさせた。
 施設長さんは「私は施設長ではなく、アパートの管理人だと思って、自由に施設で暮らしてください。」と、私を温かく迎えてくださった。けれど『施設をいつ出るのか、もしかするとこのまま施設に入所し、一生施設で暮らすかもしれない』という、先が見えない中で、不安から出てくる涙も、施設に移り住んだ当初はあったのだ。
 施設長さんは、個室であることを活かし、地域に戻る準備のために必要な自己管理・自己責任を持つ場を与えてくれた。そのことによって、他の利用者さんに迷惑をかけない、職員(支援員)を職員としてではなく、同じ社会人として見ることを心がけた。そして、必要最低限の介添え(介護)支援を目指し、福祉支援に依存せず、社会活動を深める機会にしていった。今まで両親が私の生活を管理してくれていた部分も、私の自己管理とし、一人で生活できるように身に着けていったのだ。
 福祉とは無関係で、長年交流を持っている様々な立場の大切な仲間や友人達にも、多くの協力をいただき、施設に居ながらも、ある面、実家に住んでいた以上の暮らしが出来るようになった。そして、その施設での暮らしを、毎月約2回、実家に帰った時、必ず両親に細かく伝え、一人暮らしに向けての支援についても、情報として伝え続けた。時には、話しの流れから、両親とぶつかることもあったが、月日が経つに連れて、それが低くなってきたのを感じていた。
 ショートステイのロングという形を取っていたので、いつまでも施設に居られるわけではなかった。いくら、地域に近い生活をさせていただいても、施設は施設。一般社会の空気を感じられないことも多く、良くも悪くも、一般社会にもまれないと、今まで積み上げて来た私らしさを失いそうに感じ、今年(2013)の元日に、両親にきちんと相談した。
 両親は「人は誰でも迷惑をかけ合って生きているが、知典は迷惑ばかりかけているかもしれない・・・。今後、迷惑をかけるなら、世の中の様々な立場の人達に共感される、良い迷惑をかけて生きていきなさい。一人で生きながらも、お世話になる全てのみなさまへ常に感謝を忘れてはいけない。これからは全て自己責任で生きなさい。」と話し、私の一人暮らしを快く受け入れてくれたのだ。
 一人暮らしで一番難しいと考えていたのは住居の確保だった。そこで幼い頃からの知り合いで、私の人生の大先輩(Aさん)に相談した。「市営住宅に入居出来なかったら、私のところに話しに来てください。手配するから大丈夫です。」と笑顔で話してくれた。ヘルパーの確保は、施設長さんが、「倉田さんのことは、私の弟という感覚で見ているから、兄貴と思って任せてほしい。」と言ってくれた。また私の多くの友人や仲間達は「何かあったら、いつでも声かけて。」と、皆とても優しく接してくれ、両親は、色々な手続きをしてくれた。
 5月から本格的に一人暮らしを始めるために動き始めたが、私が動く前に、みなさんが先に動いてくれて、同時進行をしていた私の諸活動も、おかげさまで、あまり支障が出ず両立できたことに、みなさんに感謝の思いでいっぱいだ。役所の担当の方も「一人暮らしの支援は出来る限りのことはするので。」と、快く応援していただき、ありがたい気持ちでいっぱいである。
 市営住宅は応募者多数で入居出来なかったが、Aさんのおかげで理解のある、とても優しい大家さんと出会い、ステキな住居が見つかり安心できた。Aさんと大家さんに深く感謝している。住居は段差や階段もあるが、多少歩ける私にとっては、実家同様に良いリハビリの場となる。
 9月17日、台風が去り、爽やかな青空と、まぶしい太陽のもと、色々な仲間や友人、そして両親の協力で、引っ越しを無事に終えた。さっそく夜からヘルパーの支援が入り、一人暮らしが順調にスタートした。1日、約15時間の居宅ヘルパーが入っている(1週間で居宅事業所が5か所)。
 私が全く無知なのは家事だった。家事は今まで両親や施設の人に任せていたからだ。せっかくの一人暮らし、両手が使えない私だが、生活の基本を知ろうと、ヘルパーに教えていただき、知識を身に着けるため、毎日少しずつ覚えるようにしている。
 食事は野菜中心にと心がけ、ヘルパーと相談し、ヘルパーに手料理を作っていただいている。毎日、人が異なるため色んな味付けが楽しめて、おいしい。体もより健康になった。食費や光熱費といった、生きる上で最低限の必要な経費も見え始めてきた。思っていたよりも、出費はかかっていないものの、ぎりぎりの生活には間違いない。節約生活を研究中である。
 福祉分野(主にヘルパー)とは異なる、社会参画の諸活動の仲間や友人と過ごすことも、私にとってとても大切であり、生活の大きな柱となっている(不定期な外出等)。毎月のうち半月近くは外出等をするのだが、悩ましいのは、居宅におけるヘルパーをキャンセルすることだ。ヘルパー業界はアルバイトの人も多くキャンセルすることにより、そのアルバイトの人の給料が減ることも考えられる。それは事業所としても本音は良い顔をしないのも、私はとても理解している。
 しかし、事業所の気持ちを受け入れてしまうと、私は家に引きこもってしまい、何のための一人暮らしなのか。また、私の自立を後退することになり、まるで施設の延長線上では一人暮らしの意味もない。
 福祉以外の様々な仲間達に意見を聞き、私も色々考えたが、私と各ヘルパー事業所との交わした契約は守っており、また、それ以上に私自身、各ヘルパー事業所へ気を使っているのだ。ヘルパーの気持ちを受け止めれば、とくに気にしないようにしようと考えている。仲間達にも「そこまで気にすることはないし、一般論として、各ヘルパー事業所内で解決することであり、利用する側に話しをするのは、一般企業ではありえない。」と話してくれた。「今まで以上に外出し、ヘルパー事業所や福祉業界の人達にも理解をしてもらい、これが普通の感覚で、世の常といったモデルケースを作れば良い。」と、仲間達から応援の言葉をくれたのだ。
 実家で暮らしていた頃のように、私らしく積極的に、これからも多く外出などをし、諸活動の仲間や友人と過ごし、様々な輪を広げ、福祉とは無関係な立場の人達と、色々なことをしていき、街に恩返ししていきたいと思う。福祉用語では、『地域で生きる』というが、私は『社会の一員』として生きていきたいと思う。
 施設暮らしをしていた頃、本音を言うと施設を出て居宅に戻る時には、ステキな女性のパートナーが出来て、2人暮らしをしたいという思いがあった。施設では、とある女性支援員に片思いをし、告白したが、フラれてしまった(苦笑)。けれど、私を利用者として見ることをせず、男性として長時間、本音で語り合った思い出は、今となってはなつかしいし、すっかり過去の思い出となった。
 私は今、好きな女性もおらず出会いもない。けれど、最終目標は二人暮らし。今挑戦している『足で撮る写真家』として、将来のパートナーを写すことも、私の目標だ。1日も早くステキな女性と出会いたい。
 あんなに反対していた両親が、私の一人暮らしの最大の応援者となってくれて、心より感謝している。その思いを大切に、元気で楽しく生き生きと、この街でずっと暮らし続けたい。

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2013年9月号 何かと目立つ私、いつか卒業したい

倉田知典 http://www.skz.or.jp/taiwa

 勉強が苦手で学校のテストでは、いつも国語が赤点だった。また性格は、大勢の中の輪に入ると何を話して良いのか、わからなくなり、孤独感を覚える。1対1や、少人数の仲間達と触れ合うことを好む。上に立って人をまとめ、何かに取り組むといったリーダー的な役は向いていない。興味もない。福祉の「ふ」の字も無縁である。この性格は大人になっても変わらない。
 学校嫌いで高校は行かずに中卒。その後コンビニでアルバイト。学歴社会と言われる中で、世間の目は「おちこぼれ」と冷ややかに見る人も中にはいた。だが、社会に飛び出して社会経験をし、それから自分は何をしたいのかと、気付くことから初めても遅くはないと思った。むしろ社会の厳しさと楽しさを早く経験した方が、あとで人生を失敗しないのではないかと考えたのだ。
 コンビニでアルバイトの毎日。1人で食べて行けるだけの生活と、新車がほしくて貯金を積み重ねていく。3年後の18歳で車の免許を取り新車を購入。運転しながら走り映る様々な景色と車内での1人の空間に、落ち着きを感じた。好きな女性を乗せると、もっと落ち着けた。それが本業となるヒントになった。つまり自分がおちついて、生涯、何を仕事にしたいのか、ということが定まったのである。
 21歳で大型の免許を取り転職し、正社員としてトラックの運転手になった。そして以前、共にしたバイト仲間の女性と結婚。ますます仕事に励みがつくようになった。
 トラックで本州を1人で走り回り、日本各地の美しい風景と、休憩時間は高速道路のサービスエリアや国道などの道の駅で、ご当地物を食べ堪能する。風景や美味しい食べ物を自身の心に残すだけでは物足りず、カメラを持ちバシバシ毎日撮り続けるようになった。そしてブログやSNSに、その様子をいつも更新するうちに、ネット仲間と共感し仲良くなり実際に会い、友人関係を広めた。
 家庭に帰ると2人の娘の父親だ。家族4人でテーブルを囲み、嫁と娘たちが作ってくれる美味しい料理を食べ、お酒を呑みながら普通の一家団欒な時を過ごす。子煩悩で、嫁には優しいダンナである。長距離の運転手なので、週に2〜3回しか家に帰れないけど、帰って家族と過ごすのが、最高の幸せ。
 私が健常者だったら、こんな生き方をしたかった。普通の仕事、普通の家庭がほしかった。もともと目立つことを今でも本音は好まない。色々なマスコミに取り上げられることなど、当初は考えられなかった。
 しかし重い肢体不自由で自力外出の不可な私。何もしなければ行き場がなく、部屋にこもっているだけの生きがいのない人生を一生送ることになる。生きがいがないなら、生きる意味もない。また私は孤独が何よりも恐怖だ。
 様々な立場の社会のみなさんの共感を得ながら、生きがいを作り、社会の役に立てる一員として、感謝しながら微力ではあるが日々努力を重ねた。努力の成果をマスコミのご協力も頂き、様々な立場の多くのみなさんの励みになればと思い、広く伝え続けている。そのように私は目立つことをし続けて来た。そして結果として、私は人並みの暮らしが出来ると信じ、長い年月が経ったのだ。
 人並み以上に、ある部分では社会経験をさせて頂いたことも多いかもしれない。でも普通の家庭を持つことには、パートナーとの出会いがまだなく、今は遠い夢物語の段階である……実っているはずの結果は今だ何も実っていない。仕事の方は、少しずつ話しが進み始め、本格的になるのはこれからだ。
 私は目立つことを卒業し、1日も早く、普通に家庭を持ち仕事が出来る環境になることが一番の目標である。
 趣味も今は、たくさん持っているので続けて行きたい。

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2013年6月号 福祉の常識は、社会の非常識になってはいないか…。

倉田知典 http://www.skz.or.jp/taiwa 

 障がい者(児)福祉(以下 福祉という)で、『支援』という言葉が本格的に使われ始めたのは、2003年の支援費制度からだと思う。その前までは『援助』といった言葉が主流だった。2011年に起きた東日本大震災後の復興に向けては、「支援」という言葉を、福祉だけではなく誰もが使うようになった。
 『援助』は「助ける」、『支援』は「支える」というのが、私から見たイメージである。「支える」という方が、障がい者の、さまざまな自立へと努めて行くと言った意味合いでは、私は『支援』という言葉に今は納得している。
 公共の交通機関や娯楽施設他、友人などと利用する際に、そこの職員は、私の友人に対して、私の「お付き添いの方」と言う。「付き添い」の方が社会では常識な言葉として定着しているように思う。また健常者が、介護が必要なくらいお酒に酔い、酔ってない人が手助けすることを「介抱」と言う。
 福祉では、『介護(者)』や『介助(者)』と言ったり、いまだに『指導』という言葉を使ったりする。『介護』というのは「保護的な感覚」、『介助』は「助ける」、『指導』は、「上からの目線で教える」という、あまり私は良い気持ちではないイメージがある。
 せっかく『支援』が世の中の常識的な言葉となり、障害者自立支援法から障害者総合支援法となった今も、表向きは『支援』と書きつつ、中身を読んで見ると、相変わらず『介護』などといった、変わらない言葉が並んでいる。
 私の紹介文や、私のその他の文において、いつも心がけていることは、『介添え』あるいは『付き添い』、『食介』、また『肢体不自由』と言った言葉を用いるようにしている。『食介』は正しく言うと、『食事介助』の略であるが、『食事介助』と正しく言うべきだと考える福祉従事者も、中にはいるようだ。私は助けるという意味合いの『介助』という表現は、「支援」に適してないと思うので、『食介』を通常用語にするべきだと考えている。
 また、「障がい者」だと何の障がいなのか不明であることや、もともと「障害者」と書き、「害」という言葉も、私は良い気持ちではない。なので、主に首と両手の見かけだけが私は不自由なため、自分自身のことを、よりわかりやすい「肢体不自由」と表現している。
 福祉の常識を世の中に広げ、理解して頂くだけでなく、『介護』や『介助』より『付き添い』と言った、一般社会で浸透している言葉を、逆に福祉側が取り入れることも大切であると考える。もちろん言葉だけに限らず、全てにおいて、社会の常識も取り入れることに、検討していくべきだと考える。
 福祉のことを理解してもらうことに限らず、福祉側が社会を理解していくことも、同じ社会の一員として大切である。それがあって、はじめて本当の意味での相互理解が深まるきっかけになると考える。
 福祉の常識は、社会の非常識になってはいないか、常日頃から確認して心がけながら、社会の常識を積極的に理解し、取り入れることに努めていける私であり続けたいと思う。
 また、人として一番大切なことは、さまざまなことを支援していただく日々の中で、みなさんに感謝の気持ちを心から持ち続けることである。これからも、『ありがとう』の気持ち(心)と言葉を持ち続けていきたい。

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2012年9月号 仕事で恩返しをしていきたい

倉田知典 http://www.skz.or.jp/taiwa

 千葉県庁で開かれる自立支援協議会の場で、内藤(常務理事)さんと出会った。私は重度肢体不自由のため、継続的な就労に今まで縁がなく、自立支援協議会で、私と同じ立場の人も、様々な立場の人と共に働ける場を…と提案をしていた頃、隣に座わられていた内藤さんに、声をかけて頂いたのが、良い仲間としての触れ合いの始まりだった。
 ご挨拶を交わし、さっそく呑みましょうという話しになった。数週間後、私の地元、市原市の呑み屋さんに奥さまと共に来て頂いた。内藤さんと、じっくりお話しをするのは、その場が初めてで顔合わせの状況でもあった。しかし、互いに深酒を交わすうちに、昔ながらの心通う同士のような感覚となり、言い合い放題。あっと言う間に私達は、まろやかで呑みやすいお酒に出会ったように溶け込み合った(笑)。横に座られた内藤さんの奥さまには、ただ内藤さんに一途に付いて行くといった、昭和の人情あふれる女性のオーラを深く感じた。まさしく「最愛」といった言葉がお似合いである。ご夫婦の姿を見ていて、内心とてもうらやましいと感じた私である。
 酒のつまみを口にしながら、「倉田さんには、うちの法人のスタッフとして働いて頂きます」と内藤さんからお話しがあり、心から嬉しく思った。数日後、本紙ライターの依頼を頂き、喜んで引き受けた。今回で4回目の連載。正直、文章を書くことは得意ではないが、これからプロとして、読者のみなさまに親しみを持たれ、共感し合えるものが毎号できるように、日々修行中の身である。
 仕事の幅を広げるという本気さと強い思いを頂き、心から感謝の気持ちでいっぱいだ。
 そこでまず私は、法人本体に自力で足を運ばせて頂きに行こうと決心。それは法人のみなさんに、ご挨拶させて頂きたいことや、仕事に対する自覚をしっかり感じたいと思ったからだ。また自分の職場でもあることから、スタッフのみなさんと仲良くなりたいと思ったこと。そして、お話しをさせて頂くことで、新たな仕事に結びつくヒントにもなれれば…。つまり、スタッフのみなさんとチームが組めるような仕事も、いつか出来ればと思ったからだ。
 そして、さまざまな思いの中で、通勤感覚というものを味わってみたいと感じ始め、電車で八街駅へ1人で行ってみようとチャレンジ。4年ぶりの小1人旅でもあった。去る七月、利用客の少ない時間をねらって駅へ入ると、私自身が予想してなかったことが待ち受けていた。なぜか女子高生が、たくさん駅のホームに居て、電車の乗り降りをしているのだ。しまった…。学生は期末テスト期間?で、早く下校の時期だったと気付いた。
 私は両手が思うように動かないだけでなく、無意識に手が勝手に動いてしまうといった、不自由さもある。万が一、人に触れてしまえば、このご時世なので大変誤解され、ごめんなさい…では、すまないことになりかねない。また総武本線は電車がゆれやすく、車椅子をロックしていても、ロックはあまり意味がなく、細心の注意をずっと持っていないと、私が倒れるか、人にぶつかるといった危険がはらんでいる。まさに命がけだ。そして、もし電車が災害などにより途中で止まることになったら…と考えると、リスクは計り知れない。電車に乗ることが、今回、私の一番のメインイベント…まるで、スタントマンになった気持ちだった。とにかく、高校生から離れ人から離れる努力。ゆれる車内では、足をふんばって車椅子が動かぬよう必死だった。八街駅に到着すると、とてもほっとした気分だった。
 駅のホームに内藤さんと、2人のスタッフの方が温かく出迎えをして頂いた。その後、車に乗せて頂き、法人本体に到着。小澤理事長さんをはじめ、様々なスタッフの方と、顔合わせをさせて頂き、交流や仕事に関する意見交換などをさせて頂いた。みなさんとても優しくて温かく、本音で接して頂き嬉しかった。
 夜は内藤さんのご自宅に泊まらせて頂き、奥さまのおいしい手料理を頂きながら、お酒を呑み、数年ぶりにタバコを内藤さんに吸わせて頂いた。入浴も内藤さんに入れて頂き、介護保険を中心とした居宅事業所のヘルパー以上に、入浴の介添えが丁寧で、「居宅事業所を法人で持たれたらいかがですか…」という程、内藤さんの介添えは良かった。内藤さんは「居宅事業所?こういうことは、倉田さんのことを仲間だと思っているから出来るんだよ。仕事にはしたくない」と言われた内藤さんの思いは、人情臭くて、とても嬉しかった。
 次の日は成田の事業所で、障がい者が就労に向けての心構えに関する講座に参加させて頂いた。社内の中で誉めてもらえる社員になるには、どうしたら良いかという話題が中心だった。もし私に置き換えて考えてみた場合、周りの人から誉められるより、自分が周りの人に対して、誉めたり認めたりしていくことの方が、自然に皆が誉め合う環境になっていくのではないかと思う。そのことは社員同士の仕事に対するスキルも上げ、またお客さまにも、より良いサービスを提供しやすくなることに、つながるのではないかと感じる。
 何よりも、仕事をさせて頂く以上、職場内で認められることより、お客さまに認めて頂いた方が、私は嬉しいし、多くのお客さまに本当に認められた時、社内の人達にも、自然と認められ誉められるのだと感じた。
 午後からは、法人本体で、法人の運営会議に参加させて頂いた。私も以前、NPO法人の運営をさせて頂いたので、あの頃を思い出し、とてもなつかしい雰囲気だった。上司スタッフの方や内藤さんが、会議をまとめて行く様子を見させて頂き、私自身も似たことを経験させて頂いた過去があったことに、あらためて、ありがたく思った。まだまだ心至らぬ私だが、少しは世の中を広く見ることのできる今の自分になれたのは、過去の経験のおかげであると思うからだ。
 会議が終わると、入所のお客さまから、廊下でいきなり声をかけて頂いた。挨拶より先に「見ていますよ。知ってますよ」と何回も言われ、最初、何のことかわからなかったが、よく話しを伺ってみると、本紙の私の記事を読んで頂いているとのこと。とても嬉しく、私のこのライター業に勇気を与えて頂けたのだ。そのことがとても励みとなった。また、他の入所のお客さまと、少ない時間だったが交流ができた。みなさん、心が純粋で素直な方達ばかり。良い触れ合いをさせて頂き、有意義な一時だった。
 夜、内藤さんが、近くのお寿司屋さんに連れて行って頂いた。そこには、とあるスタッフさんも来て頂いた。その方は私のような肢体不自由な者と、触れ合うことが初めてとのこと。緊張していた様子だが話せて良かった。
 3日目は、内藤さんのご自宅でゆっくりした後、奥さまと共に内藤さんに、わざわざ私が住む市原市の福祉施設まで送って頂いた。
 これから3ヶ月に1回程度、八街市の法人本部に電車で通わせて頂く予定。スタッフの一員として、私も深く自覚し溶け込んで行きたい。ライター業と、今後はメールを活用した、相談支援の業務を行うということが、今回、行かせて頂き話し合った成果である。お客さまと共に歩み、喜びや色々なことに共感のできるような、仕事が出来る自分自身になりたいと思う。
 内藤さんをはじめ、スタッフのみなさま、そして内藤さんのご家族のみなさんに、心から感謝している。これからも末永く、スタッフの一員として私に、ご指導とご協力をお願い申し上げたい。
 お客さまに、心から喜んで頂けるような、良い仕事が出来るようになることで、みなさまに恩返しができるようにと思っている。

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2012年6月号 一期一会の店員との出会い

倉田知典 http://www.skz.or.jp/taiwa 

 以前、私は女性の友人とショッピングセンターへ買い物に出かけたことがある。異性の友人と2人で1日を過ごす経験は、過去に片手の指の数もない。決してテレくさいわけでもなく、むしろ年頃の私にとっては、行きたくて仕方がなかった。しかし、実行するには1つだけ解決しなければならない問題があり、いつも内心は、ためらい続けていた。
 全面介添えを要し、外出時は車椅子を使用する私は、移動や食事の介添えなど、友人がいつも快くして頂ける。しかし問題はトイレである。これは、お互いに、いささか抵抗のあることだ。周りを歩いている全く面識のない男性に、いきなり、トイレの介添えのお願いをする勇気は、私自身なかった。
 色々考えた結果、一番安心できる手段に気付いたのが、行った先の店員や従業員などの男性職員に、介添えを依頼しようというものだ。それにも、もちろん勇気は必要だったが実行していた。必ずしも快諾というわけではない人もいたり、中には断わって来る職員もいる。その時は、他の職員にお願いし、何とか介添えをして頂いていた。
 2人で楽しく過ごすショッピングセンター。そして、いよいよトイレに行きたくなり、職員を探し発見。職員に私の事情を説明し依頼した。すると、その男性職員は、笑顔で快く引き受けてくださった。トイレ介添えが終わり、その職員が私に話してくれた。
 「以前、僕はバイクに乗っていて事故に合ったんですね。それで、両手に大ケガを負い、長く入院した経験があるんですよ。その時、若い女性看護師さんに、トイレの世話をしてもらったんですが…。恋人なら良いんですけど、そうでない女性にトイレの介助をしてもらうのは、とても恥ずかしかったです。だから、介助経験も福祉のこともわからないのですが、お客さまの、お気持ちよくわかりましたので、介助をさせて頂きました」と、職員が実体験を話してくれた。その後、職員が私に「頑張ってください」と話して頂き、握手まで求められ、イケメンで優しく爽やかな良い職員と別れた。
 その日、おかげさまで、友人の女性と楽しい時間を過ごすことができた。たった数分だったが、職員との一期一会の出会いが、とても嬉しく良い思い出となった。
 それからというもの、心の底から、「ためらい」という単語が消え、駅員にお願いし、1区間1人で電車に乗ったり、タクシーの運転手に依頼し、1人で居酒屋から家に帰るなど、私が周りの支えにより、1人で移動のできる行動範囲は広がった。もちろん断わられることもあるが、その時は、笑顔で「忙しい中をすみません」と言い、また、他の人に再チャレンジして、依頼をすることが通例になった。
 あの時の職員との出会いが、おかげさまで、私は、初対面の人でも介添えの依頼をさせて頂くことに、自信がついた。あの職員に感謝している。 最近、異性の友人などがいないので、また友人がいつかでき、2人で出かけられることを夢見ている、今日この頃である。

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2012年3月号 福祉的な考え方ではなく「普通の感覚」で

倉田知典 http://www.skz.or.jp/taiwa

 もの心がついた幼少期から、1つ年上の健康なAさんが間近にいた。Aさんは、福祉の「ふ」の字も興味がなく、互いに別々の行動を取って来たが、高校を卒業するまで身近な存在だった。
 私は、幼稚園も受け入れて頂ける所がなく行けなかったため、特別支援学校小学部入学から、本格的に外の世界を知ることになった。普通学校とは異なり、福祉の世界の濃い場であるため福祉的な目線で育った。Aさんは地域の普通小・中学校に通い、高校は地域から離れた電車通学であった。彼と言葉を交わし、勉強・部活・友人関係・恋愛話しなどを聞く度に、いつも私は新鮮な気持ちとなり、また私自身、体感出来ぬことばかりで、うらやましく、あこがれの存在だった。
 特別支援学校の高等部を卒業後、当時、私の住む地域には、全面介添えを要する人達の行き場の受け皿がなく、家で孤独に生活することになった。Aさんに、いつかは近付きたいという夢は遠ざかり、私は大きな挫折を味わった。人並みの青春を味わいたいと思っていたはずが、逆に青春すら散ってしまった。
 このままではいけないと思い、地域の社会福祉協議会に顔を出し、そのことがきっかけとなり、ボランティアや、とあるバリアフリーを進めるための会の一員として活動して来た。しかし、健常者(支援者)と障がい者という割り切った関係に疑問を感じ、自ら、「障がい」・「健常」という立場をなくし、仲間作りと福祉向上の会を立ち上げ、NPO法人化をさせた。みなさんと一緒に地域社会のために、微力ながら私も、お役に立てたこと。また、その成果により、大手新聞社にも数多く、良く取り上げて頂いたことも、生きがいと喜びを、みんなで感じ合えて、とても嬉しく良い思い出である。
 また私自身、福祉的な考え方に片寄ることなく、普通の社会人の感覚(心)で法人の活動を通じて、みなさんに育てて頂いたことは、私の人生にとって、振り返ると、大きな宝ものである。会を立ち上げていなかったら、きっと、社会人としての普通の感覚は、持てなかっただろうし、社会と歩調し合うというより、福祉に依存して、福祉向上ばかりに目が行き、私自身わがままな発想しか出来ない人間であったかもしれない。
 5年前、体調不良でドクターストップもあり、残念ながらNPO法人を引退した。その後、体調が良くなり、講演、作詩他、千葉県の福祉計画の委員(県庁主催)として活動中である。昨年12月、当法人の広報紙ライターとして、スタートさせて頂き、心から感謝している。
 プライベートでは、福祉業界とは無関係な友人達と、旅行・コンサート・スポーツ観戦などや、時には呑みに行く時がある。良い友人達に囲まれ、大変ありがたい。
 私は重い肢体不自由ではあるが、いつの間にか気付いてみると、Aさんと同様の暮らしが出来るようになっていた。ある部分は、それ以上かもしれない。しかし、どうしてもAさんにはまだ届かず、また私の人生最大の目標が1つだけある。Aさんのように普通に結婚し、平凡に暮らしたいという思いが私の理想であり自然な気持ちだ。
 昨年夏、両親の老いにより、私の生活面の介添えが、そろそろ難しくなって来た時期を迎え、暮らして来た実家を離れ、とある福祉施設を主に生活を始めた。実家より自由に生活ができ、良かったと考えている。
 私のような、重い肢体不自由の人達は福祉業界から見ると、ホームヘルパーの支えを頂きながら1人暮らしや、または施設での暮らし、グループホーム等の福祉的な暮らしの中から選ぶというのが、今の現状である。また異性を求める場合は、障がい者同士が良い、と進める福祉業界の人が多くいる。理由を聞くと「同じ立場で話しが合うから」という答えを話す。私は、その理屈と発想がとても理解出来ない。もちろん、たまたま好む同士が、障がいのある者同士であるなら理解はできる。
 仮に、私が健常者だとする。たとえば私が千葉県八街市民で、同じ地域だから話しが合うといった理屈で、八街市民に限り恋をした方が良いと言われた場合、私も読者のみなさんも、違和感が出て来るでしょう。それと同じ。障がい者同士で恋愛を。というのは、とても変な理屈である。
 また世の中には、職場恋愛というのも、よくある話し。職場恋愛はいわゆる、職場から離れたところで、恋愛するのが「社会のモラル」。これを福祉施設などの職員(実習生なども含む)と利用者に置き換えて考えてみると、実際多くは、交友関係になることや恋愛を禁じているところ、利用者としてしか見ない職員の意識、また事故が起こった場合、事業所の責任になるという間違った理屈を話すなど、社会の常識から考えると、異なる福祉の常識に違和感と不自然さを覚える。どんな立場であろうと「社会のモラル」を、両者が守る意識があれば、個人間の自由であり、各法人・事業所などが、決まりごとを作り、全員に押し付けるのは、ノーマライゼーションに、大きく反する一つであると考える。
 本音を語るなら私も男として、普通に女性と2人で暮らしてみたい。しかし、それが難しい場合、一緒に住むのは別な話しとして、お互いに居心地良く、ずっと一緒に愛し合える、本当の恋人が現れることを、私は心から望んでいる。肢体不自由ではあるが、自由な心をフルに動かし、相手の女性を大切にし続け幸せにしたい。男として生きている以上、私の最大の目標をかなえてみたい。
 これから良い出会い(女性)があるとしたら、どんな立場の人であっても、こだわらない。たとえ福祉業界で身近な職員でも、勤務時間外は、肩書きのない「個人」となり、人としてのモラルを互いにきちんと守れば、個人間の自由であり、社会の常識として付き合うことに異論も生じない。私は歓迎する。
 見かけの肢体不自由さなどではなく、私のことを心から見てくれる女性が良い。私も肢体不自由さを感じさせない、自由な心をもっと使いこなし、魅力のある男を目指したい。
 先日、Aさんが私の部屋に来てくれた。「ここなら安心して彼女、呼べるね」と笑顔で語った。新しい暮らしが始まって早半年。私の部屋に来てくれる女性が1日も早く現れることを願っている。

E-mail tomonori.taiwa@gmail.com

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2011年12月号 きっかけ

倉田知典 http://www.skz.or.jp/taiwa

 当時、私が活動していた、体の不自由な人と健康な人との交流会で、健康な彼と知り合った。私と何気ない話しをしているうちに、「交流会に参加した理由は?」と彼に聞いてみた。すると「僕はボランティアや福祉に興味があるわけではなく、純粋に、新しい友達ができればと思い参加したんだ。」と話してくれた。それがきっかけで、彼が学校を卒業して事務職の会社員になってから、私との個人的なふれあいが始まった。
 ある日、彼と他の友人と共に一泊二日でキャンプへ行くことになった。彼は「バリアフリーが整ってなくても良いから、景色の良さそうな場所を見つけてね。」と私に話してきた。
先天性の脳性小児マヒである私は、首や両手が思うように動かない。介添えが必要で自力外出の困難な肢体不自由である。しかし足は少し使えるため、パソコンを足で操作してインターネットでキャンプ場を調べ、地図と共に印刷し、それを彼に見てもらった。すると彼は「このキャンプ場へ行こう」と快く受け入れてくれた。
 キャンプ当日、現地に着くと彼と友人は早速テント張りを始めた。彼は私に「周りの色鮮やかな森を見たり、自然の空気を満喫して、ゆっくりしててね。」と言ってくれた。私は車椅子に座り、テント張りから食事の準備など、彼や友人が行っている姿を見ていることしかできず、内心、何も協力できなくて申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 夕ご飯が終わり、目の前は焚き火の輝く炎、見上げると無数の星が優しく光る中で、私は彼に「テント張りや食事作りなど何も出来なくてごめんね。」と話した。すると彼は「あやまることはないよ。夜空がキレイで自然の空気がおいしいキャンプ場を見つけて、予約を取り、この場所の詳しい地図まで持って来てくれたよね。そういう事前の準備をしてくれたおかげで、今日という楽しい日があるんだよ。そのきっかけを作ってくれて嬉しい。ありがとう。これからも色んなところへ一緒に出かけよう。」と心温かく言葉をかけてくれた。隣にいた友人も彼の言葉に共感して、私に笑顔で頷いた。
 その彼の言葉がきっかけになり、私の気持ちは大きく変わったように思う。私にできないことはきちんと受け入れ、協力してくれる方に、素直に支えてもらい、『すみません』ではなく、心から『ありがとう』という気持ちを持ち続ける大切さを、深く知ることができた。不自由な身体だが、私には少し使える足と、無限に広がっている自由に動く心や言葉がある。使えたり動く部分を大事にして、どんなに些細なことであっても、できることを考え、それを態度や行動で示す大切さに、気づくことができたのだ。
 私は今、各地の学校や社会福祉施設、病院などでの講演を続けている。しかし肢体不自由であるからといって、日常生活の中で感じる不便さや、身体の不自由な人の福祉について、充実を訴えるといった内容をメインにはしていない。
 たとえば高校の講演では、生徒の気持ちに合わせるため、事前に、高校生が見ていそうなドラマや、興味があると考えられる俳優を、インターネットで調べたり、テレビで見るようにして共通の話題を得ていく。そして、そのような話題から講演を始めて行くと、生徒の心は、あっという間に和らぎ、本音を見せてくれる。会場は笑いの渦に包まれ、お互いがわかり合える。そして楽しい話しから、少しずつ話題を変えていく。健康であり、さらに家族や学校の先生、友達などに支えられて、高校に通うことのできる、ありがたさについて生徒へ話す。そして人は皆、立場が違っても、誰もが支えられて生きている、同じ人間であることを伝える。そのように、肢体不自由である、ないに関わらず、みんなで支え合って、気持ちの対等な仲間作りをして行こうといった、きっかけになるような講演をするようにしている。講演を聞いてくれた皆さんから、生きていることの大切さや感謝の心を常に持つことが大事であること、また色々な立場の人と、これから仲間になりたいといった内容がたくさん寄せられ、私の思いが伝わっていることに、とてもありがたく思っている。
 また私は、足でホームページを作り、普段の出来事などを載せて、自己表現し続けている。私のコメント付きの写真を見てくれる方から、重い肢体不自由を持ちながらも、笑顔で活発に活動している様子が見ることができて、元気づけられるといった内容のメールが届く。お礼の気持ちでいっぱいである。
 彼の言葉がきっかけとなり、些細なことからでも態度や行動に示すことの大切さに気づき、私なりのペースで、態度や行動に移すよう努力している。その結果として、講演活動やホームページ作りなどが、より続けられるようになった。それを通して、多くの方の心を励まし元気づけ、少しずつだが、人の役に立てるようになってきたと考える。そのことに感謝する毎日だ。
 これからも、気持ちが変わるきっかけとなった彼の言葉を、私の胸の中で大切に持ち続けたい。そして、まだまだ心至らない私ではあるが、今後とも立場を問わず、様々な人の心を潤すことに努め、続けられるようにして行きたい。
 出会ってから年月が経った彼とは、たまに、有名歌手のコンサートへ一緒に行く。相変わらず、私はインターネットでチケットを購入したり、コンサート会場を地図のホームページで調べて、印刷して彼に当日渡す。車や電車などに乗せてもらい、車内では楽しく世間話し。降りると移動は車椅子で、彼に介添えをしてもらう。
 とある日、横浜でコンサートがあった帰り、強い雷雨に合い、雨具もないまま遠く離れた駐車場まで、私の車椅子を押してもらいながら歩いて行った。滝のように降って来る雨の中、笑いながら「また良い思い出ができたよ」と、彼は さらりとつぶやく。私も「そうだね」と笑顔で言葉を返した。二人とも全身、雨に うたれて びしょ濡れだった。
 良き友である彼。いつも会った日には、帰宅前にラーメン屋に寄るのが恒例だ。麺のように長く、スープのように絡み合い、これからも大切に、支え合って良い友情関係を築いて行きたい。
彼と出会えて本当に良かった。心から感謝している。

E-mail tomonori.taiwa@gmail.com


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